2014年9月27日土曜日

二十年の音楽活動に終止符を打った最終作 ― VALENSIA『Gaia III・Aglaea・Legacy』(2014)

アグライア(ガイアIII)~ザ・フェアウェル・アルバムアグライア(ガイアIII)~ザ・フェアウェル・アルバム
(2014/09/24)
ヴァレンシア

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'93年にアルバム『Gaia』で、日本国内だけでも十数万枚のセールスを叩き出して鮮烈なデビューを飾ったオランダのソロ・アーティスト ヴァレンシアの、単独名義としては実に十年ぶりとなる新作にして、ラスト・アルバム。2010年にシングル『One Day My Princess Will Come』を完成させているので、厳密には十年ぶりではないのですが、結局このシングルは種々の事情によりリリースされませんでした。サイド・プロジェクトとして、敬愛するQUEENの楽曲の数々へほぼ一人で挑んだトリビュート・アルバムや、ロビー・ヴァレンタインとのユニット「V」、実弟のデヴィッドと組んだシンフォニック・メタル・プロジェクト「METAL MAJESTY」でも活動を展開しておりましたが、これらの活動も、いずれも十年ほど前にさかのぼるものです。世間的には(少なくとも日本国内では)やはり忘れ去られかけた存在になってしまった感は否めません。そこにきての新作となると、嬉しさという以上に複雑な思いもありました。国内盤ライナーノーツはヴァレンシア自身のコメントが掲載されており、楽曲の解説のほか、これまでの自身の音楽活動の歩みや矜持、そして新たなフィールドでの再出発について述べられております。アルバムジャケットに写る、四十三歳になったヴァレンシアの、華やかなようでどこか哀しげな表情からも、ミュージシャンとしてのキャリアを終えることへの含みのようなものを感じてしまいます。

本作はヴァレンシアの二十年に渡った音楽キャリアの最後を飾るアルバムであり、'93年のデビューアルバム『Gaia』、'00年に発表した『Gaia II』に続き、「ガイア」三部作を締めくくるアルバムでもあるのですが、結論から言うと、ここで聴けるのは「予定調和」「焼き直し」以外の何ものでもない内容です。アルバムの構成はもちろん過去二作を踏襲していますし、楽曲的にも過去の楽曲の変奏ともとれるフレーズが出てきます。また、敬愛するアーティストへのオマージュも全開であり、"Tere III"ではEAGLESの"Hotel Carifornia"を、"Finca Paris"はBEATLESの"Penny Lane"を、"Here Comes The Moron"は同じくBEATLESの"I am the Walrus"をそれぞれ彷彿とさせる仕上がりになっています。半ばツギハギの謗りを受けそうな内容なのですが、それでも非凡なセンスで鮮やかに最後まで聴き通させるパワーがあるのです。むしろ本作で初めてヴァレンシアに触れる人にとっては、間違いなく生涯に残る傑作になるのではないでしょうか。かつて『Gaia』を聴いて惚れ込み、生涯に残る傑作だという思いを抱いた人たちと同様に。それだけに「様式美」「これまでの集大成」という言葉でお茶を濁すことも十分可能なのですが、自分にはどうしてもできませんでした。彼の類まれなる才能を以ってしても、そして二十年の歳月を通しても、『Gaia』はやはり最後まで超えられない高い壁であったという、一種の諦めの気持ちの方が強かったのです。


冒頭を飾る"Tere III"は、これまた三部作として制作されてきた"Tere"シリーズの最後の楽曲で、前述したように"Hotel Carifornia"をベースにした九分半の大曲。様々なアイデアとオマージュの断片がふんだんに組み込まれた楽曲展開で最後まで押し切るという、想像するだにゲテモノめいた印象を感じさせるのですが、実際には一環して上品さすら漂う構成にまとめあげられています。これだけをみても、彼の楽曲構成力と凝り性はやはり驚異的というほかないです。幼少期に出会ったQUEENやケイト・ブッシュから鮮やかに受け継いだコーラスワークを軸に、生来の音楽的素養であったレゲエをはじめ、ワルツやヒップホップやオペラの要素も流し込んでキャッチーに落とし込む彼のユニークにして絶妙なポップセンスは、凡百のミュージシャンが一朝一夕に真似できるものではありません。しかしその一方で、一人でなんでもできてしまうがゆえの限界も感じてしまうのです。それは本人も以前から重々承知していたようで、ライナーノーツのコメントでは、デビュー時からQUEENと比較されてきたことに対する自身の見解、そして「オリジナルな音楽」と認識すること/認識されることへのパラドックスについて述べています。また、“これは僕の楽曲の単なるヴァリエーションで、納期に向けて焦って作ることがよくある…”とぶっちゃける一面も。

“僕の考え方はいつだってこうだった。「今日、みんなが100万ものボブ・ディランのフォーク・ソングをやっているけど、どれもみんな同じ。"Penny Lane"のような曲は世界に一つしかない」。こんなに素晴らしいスタイルを使わないなんてバカげているよ。メロディがオリジナルでありさえすれば、僕はそれでオーケーなんだ。”

“そもそも僕は、オリジナルになんてなりたいと思ったことはなかった。でもこのキャリアを終えようとしている今、結局僕の音楽がオリジナルだということはわかっている。

“肝心なのは楽曲そのものなんだ。そしてそう、それはオリジナル。聴けない人にはそうは思えない。僕の音楽はとても若い人たち、そしてとても音楽性豊かな人たちのためにあるんだということを発見した。その他の人たちは、僕が他の人たちと同じことをやっていると僕をオリジナルと見なす。興味深いパラドックスだ。”
(ライナーノーツより)


考えようによっては、「QUEENやBEATLESやケイト・ブッシュへのオマージュをいくつも捧げてきた彼は、最後の最後で自分自身をもオマージュして、本作を作り上げた」とみることもできるかもしれません。また、本作の歌詞はこれまでのように幾らかのオブラートに包んだり女性たちとのことを面白おかしく軽妙に綴ったものではなく、かなりストレートにヴァレンシア自身のプライベートな心情を吐き出したものになっているのも見逃せないところです。あまり表に出すことのなかった自身の過去のトラウマや確執、リスナーへの痛烈な皮肉や真っ黒な悪意をぶち撒けているのにはいたく驚きました。ひとつ挙げると、"Tere III"のなかには【日本からの呪い】というパートが存在し、そこでは“昔の呪いが上空を舞う 桜の海から海を越えて 全ての魔女達よ 気をつけるがいい―”と歌われています。なかなかに痛烈な一撃。思えば、華々しいデビューの後に彼が辿った道は、決してやさしく、そして満足のいくものではありませんでした。

アルバム制作の過程でヴァレンシア本人が音楽以外の別の道に力を注いでいきたいと思い始めてきていたのも、いくらか影響していると思います。彼の生来のナイーヴさも、良くも悪くも活動に大なり小なり影響していましたが、最後までそれを失わなかったのはある意味 救いだとも思いました。二十年培ってきたキャリアにしがみこうとする逃げ道を残さず、このアルバムを以って音楽活動を終えると宣言したヴァレンシアの潔さには心の底から感服します。彼は今後、映画芸術の道を征く決心をしたようです。ライナーノーツで彼はたびたび“自分がやってきたこのスタイルの音楽は決してなくなりはしない。いつか戻ってくる”という旨のコメントを述べていましたが、これはヴァレンシア自身が再び音楽へ戻ってくるという意味ではないでしょう。自分も、彼自身が再び戻ってくることに期待はしてません。今はただ、彼の新たな門出の先に幸多からんことを願うのみです。

2014年9月21日日曜日

音楽に潜む暴力と殺戮の響きを聴き、音楽の根源の虚無に相対する ― パスカル・キニャール『音楽への憎しみ』(1996 ‐ 青土社)

音楽への憎しみ音楽への憎しみ
(1997/08)
パスカル キニャール

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“「音楽への憎しみ」という表現は、誰よりも音楽を愛した者にさえ、それがどれだけ憎むべき対象になりうるかということを言わんとしている。”(『音楽への憎しみ』P.180)


 フランスの作家、パスカル・キニャール(Pascal Quignard)が 「小論集」というシリーズのひとつとして著し、'96年に刊行されたもの。原題は“La Haine de la musique”。少し前から気になっていた一冊で、最近にようやく手にとって読んだのですが、刊行から20年近く経とうとしている今でもなお刺激的な示 唆と、呪いのような余韻に富んだ一冊でありました。音楽への憎しみというシンプルながら強烈な印象を与えるタイトルだけ読むと誤解を生みそうですが、本書 は単純に音楽への嫌悪を表明したものでも、偏屈的に断罪したものでもありません。著者はかつて、ベルサイユ・バロック音楽フェスティバルの運営委員長を務 めたほどに音楽界での権威的な地位にいた人物でもあったのですが、ある時を境に自らその地位を退いたのです。彼はなぜ、音楽から離れることになったのか?  古今東西の様々な文献・古事を辿りながら、音、声、人間の生来の特性に繋がる種々のエピソードも交えつつ、音楽の根源にあるものを暴き出してゆく本書を 読めば、彼が絶望・諦念にも似た哀しみの境地へいたった一端をほんの少しだけうかがい知ることができます。また、本書は全十章の断章となっており、よくあ る音楽分析・評論の形式をとってもいません。知の逍遥ともいうべき散文の数々は、一読しただけではその意味を汲み取れない部分も多く、読み手は常にうっそ うとした森の中を探り探りで歩いているかのような感覚に囚われます。それは、キニャール氏においても同様だったのではないかと思います。

 いくらか直接的に言及しているといえる章は「第二考」「第七考」「第九考」でありましょうか。「第二考 耳にはまぶたがない」で は、人間の聴覚、聞くこと/聴くことについてクローズアップされています。まぶたでさえぎることができる視覚と違い、聴覚は自らの器官では意図的にシャッ トアウトすることができない。その、「無限の受容性(不可視の強制的な受容)」こそが人間の聴覚の根拠をなしている。音には主観も客観もなく、われわれは 殺到する音に強姦される。〈沈黙〉がもっとも耳が鋭敏になるときだとして章を締めくくります。

“耳よ、おまえの包皮はどこにある? 耳よ、おまえのまぶたはどこにある? 耳よ、ドアは、鎧戸は、膜は、屋根はどこにある?  生誕の地から、そして最後の瞬間まで、男も女も一瞬たりとも休むことなく音を聞いている”(『音楽への憎しみ』P.101)


 そして「第七考 音楽への憎しみ」で は、音への服従、音楽への服従が、イタリア人作家プリーモ・レーヴィ、アウシュビッツの音楽隊に属していたシモン・ラックスによる強制収容所のエピソード も交えて語られます。ホロコーストに加担した唯一の芸術は音楽であった。なぜ音楽は数百万もの人々の殺戮に加担できたのか? 音楽それ自体がひとつの権力 であり、そしてそこから立ち上がる指揮者・実行者・服従者という構造。強制収容所で響き渡った音楽は、人々への安らぎをもたらすために奏でられたのではな く、服従を、そしてその先にある絶望をあらわにするだけであった、と。音楽は痛みを与えるものであり、「死の間隙」に支配されている。「音を楽しむ」と書 いて音楽といわれるように、音楽に対してわれわれは悪しきイメージを抱きにくいのではないかと思います。しかし「音楽は素晴らしいものだ」というある種の 共通認識に立ち、他者にも無意識的にそれを強いているからこそ、大なり小なり様々な軋轢が生まれ出るのではないかとも思うのです。「音楽の力を信じる」と いう耳ざわりのよいフレーズは昨今よく聞くところではありますが、そうのたまうのであれば、音楽の持つ、服従と蹂躙、暴力と殺戮の記法としての負の側面も 信じ、まなざしを向けてもよいのではないかと思うのです。

“音楽を聴くとき、それがいかなる音楽であろうと、それに服従することなく聴くことができるか?
音楽を聴くとき、音楽の外部から聴くことができるか?
音楽を聴くとき、耳を閉じて聴くことができるか?”
(『音楽への憎しみ』P.189)


「第九考 憑きを落とす」で は、音楽の力、歌の力からの逃れについて語られています。人間は自然の音からの身体的な隷属からは脱したものの、今度は電気的なメロディーに従属してし まった。演奏家が聴衆に求めるものは〈沈黙の強さ〉であり、「聞かせてもらう」ということを前提にした極度に虚無的な状態に沈めようとする。ここにもやは り、支配するもの/支配されるものの図式が立ち上がりますし、ある種の強制力もほのめかしているわけです。キニャール氏は「いつの時点から音楽が離れてし まったのか、わたしにはけっしてわからないだろう」と述べる。そして「人間的なものが重きをなしたことなどない」と繰り返され、静かな絶望と苛立ちのな か、虚無的に締めくられるのがこの章です。

“無限に増幅された音楽は、書籍や雑誌や絵葉書やCD- ROMに複製された絵画と同じく、その本来の単一性を剥ぎ取られている。単一性を剥ぎ取られることによって、その現実性も剥ぎ取られている。その結果とし て、その真実性も失っている。増幅されることによって、その出現(アバリツシオン)の神秘性が奪われた。それが奪われることによって、原初の魅惑も美しさ も奪われてしまった。”(『音楽への憎しみ』P235-236)

“現実の過度 な偽装が、現実の大気のなかに広がり、沈んでいる現実の音を押しのけてしまった。コンサートの、生中継の技術的条件に聴衆はますます神経を尖らせ、それに よって聴衆の知識も技術的でマニアックなものになってしまった。要するに音響効果を聴いているのだ。自分が統御しているもの、ヴォリュームを上げたり下げ たり、中断したり、あるいは指先や目で至上権を発動できるものに対して耳を傾けているのだ”(『音楽への憎しみ』P.237)


昨今ではHQ-CDやSHM-CDなど、「高品質・高音質」をうたったCDが次々と登場しています。しかし、盤に封じ込められた音がどれだけ鮮明で生のもの に近くなろうとも、根源的にはやはりまがい物でしかないのではと、ふとした瞬間に思うときがあります。しかしそのことを深く考えてしまうと、芋づる式に自 分のなかの「何か」が壊れてしまう。正直いって認めたくないものがあります。認めたくないからこそ、無意識のうちに思考を停止して音楽を楽しんでいるので す。キニャール氏はその思考を止めなかった。だからこそ、かつては深く愛していた音楽と静かなる決別に至ったのかもしれません。しかし彼が孤独の道を選ん だことへの是非を問うことなど、誰であろうとできはしないでしょう。


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以下は、本書のテーマの周辺をつついた、付記的な内容になります。


小説家の休暇 (新潮文庫)小説家の休暇 (新潮文庫)
(1982/01/27)
三島 由紀夫

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 ところで、三島由紀夫の著作に『小説家の休暇』(1955) と題した自身の芸術観を語るエッセイがあります。そこでは音楽にも触れられているのですが、そこで彼は音楽の根源的なものにいくらか気づいてたふしがうか がえます。音という無形態なものに対する恐怖、音楽の深淵を覗き、演奏家に身をゆだねることの危険について述べています。「だから私は喧騒のあいだを流れる浅はかな音楽や、尻振り踊りを伴奏する中南米の音楽をしか愛さない」とも。

“音楽というものは、人間精神の暗黒な深淵のふちのところで、戯れているもののように私には思われる。こういう怖ろしい戯れを生活の愉楽にかぞえ、音楽堂や美 しい客間で、音楽に耳を傾けている人たちを見ると、私はそういう人たちの豪胆さにおどろかずにはいられない。こんな危険なものは、生活に接触させてはなら ないのだ。音という形のないものを、厳格な規律のもとに統制したこの音楽なるものは、何か人間に捕えられ檻に入れられた幽霊と謂った、ものすごい印象を私 に惹き起す。音楽愛好家たちが、こうした形のない暗黒に対する作曲家の精神の勝利を簡単に信じ、安心してその勝利に身をゆだね、喝采している点では、檻の なかの猛獣の演技に拍手を送るサーカスの観客とかわりがない。しかしもし檻が破れたらどうするのだ。勝っているとみえた精神がもし敗北していたとしたら、 どうするのだ。音楽会の客と、サーカスの客との相違は、後者が万が一にも檻の破られる危険を知っているのに引きかえ、前者はそんな危険を考えてもみないと ころにある。私はビアズレエの描いた「ワグネルを聴く人々」の、驕慢な顔立ちを思い出さずにはいられない。作曲家の精神が、もし敗北していると仮定する。 その瞬間に音楽は有毒な怖ろしいものになり、毒ガスのような致死の効果をもたらす。音はあふれ出し、聴衆の精神を、形のない闇で、十重二十重にかこんでし まう。聴衆はそれと知らずに、深淵につきおとされる。……”(『小説家の休暇』P.16‐17)

“他の芸術では、私は作品の中へのめり込もうとする。芝居でもそうである。小説、絵画、彫刻、みなそうである。音楽に限って、音はむこうからやって来て、私を 包み込もうとする。それが不安で、抵抗せずにはいられなくなるのだ。すぐれた音楽愛好家には、音楽の建築的形態がはっきり見えるのだろうから、その不安は あるまい。しかし私には、音がどうしても見えて来ないのだ。(中略)しかし、音のような無形態なものがせまってくると、私は身を退くのだ。昼間の明晰な海 は私をよろこばせるが、夜の見えない海のとどろきは私に恐怖を与える”(『小説家の休暇』P.19‐20)

“何か芸術の享受に、サディスティックなものと、マゾヒスティックなものがあるとすると、私は明瞭に前者であるのに、音楽愛好家はマゾヒストなのではなかろう か。音楽をきくたのしみは、包まれ、抱擁され、刺されることの純粋なたのしみではなかろうか。命令して来る情感にひたすら受動的なあることの歓びではなか ろうか。いかなる種類の音楽からも、私は解放感を感じたことがない。”(『小説家の休暇』P.20)


「夜の見えない海のとどろき」という形容がされていますが、『音楽への憎しみ』には、「第四考 音と夜の関係について」という章があります。また『音楽への憎しみ』第七考にはこのような箇所があります。

“聴覚は、その個人の歴史を通じて、嗅覚よりも、もちろん視覚などよりはるかに先立つ、もっともアルカイックな知覚であり、夜と連携している”(『音楽への憎しみ』P.98-99)


ララバイ (ハヤカワ・ノヴェルズ)ララバイ (ハヤカワ・ノヴェルズ)
(2005/03/24)
チャック・パラニューク

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 さて、「音楽にひそむ暴力と殺戮の響き」というテーマに戻りますが、音楽による殺戮を書いた作品に、アメリカの作家チャック・パラニュークが著し、'02年に刊行された『ララバイ』と いう小説があります。ある時 赤ん坊が連続して不審死する事件が起こり、その「乳幼児ぽっくり病」の要因を調べていくうちに「間引きの歌」という子守歌の存在が明らかとなるのですが、 その歌には聴く者を瞬時に死に至らしめる魔力が備わっている。主人公の新聞記者はこの謎に迫る一方で、それを利用していく…というあらすじ。ストーリーは いささか消化不良気味ではあるのですが、現代社会への痛烈な皮肉やアジテーションも混じえたパラニューク氏特有の文体は本作においても実に刺激的であり、 また啓示的な内容ともとれるものになっています。

“音楽中毒だと自ら進んで認めたがる人間はいない。そん なことは考えられない。音楽やテレビやラジオの中毒などありえない。人はただもっと音楽を、もっとチャンネルを、もっと大きな画面を、もっとボリュームを 必要とするだけだ。なくては生きていけないが、とはいっても、中毒などでは決してない。その気になれば、いつだってオフにできる。”(『ララバイ』P24)

“かのジョージ・オーウェルは、あべこべを書いた。“ビッグブラザー”は監視しているのではない。歌を歌い、踊っている。帽子からウサギを出して人の気を引い ている。ビッグブラザーは、きみが目を覚ましている間、絶えずきみの関心を引きつけておくのに忙しい。きみの注意がつねに散漫であるよう念を入れている。 いつも完全に上の空であるよう念を入れている。ビッグブラザーは、きみの想像力が退化するよう念を入れている。盲腸と同じくらい無用の長物になるよう念を 入れている。きみの意識がつねに満杯であるよう念を入れている。そしてこのくらい満杯だと、監視されているよりもなお不幸だ。意識がつねに世界によって占 領されていると、きみが何を考えているか、誰も気にする必要がなくなる。すべての人の想像力が退化していると、誰も世界に脅威を与えない。”(『ララバイ』P25)


  先ごろ全世界で展開され、iTunesユーザーの混乱と賛否両論の嵐を巻き起こした、appleとアイルランドのロックバンドU2がタッグを組んでの新作 アルバム無料/無差別ダウンロードキャンペーンですが、施策の可否はともかくとして、少なからず暴力性と紙一重な印象を感じさせました。iTunesユー ザーに勝手にデータを送り込むことが可能だということがわかり、『ララバイ』の「間引きの歌」のような、音楽を介した殺戮も夢ではなくなったわけでありま す。これを「現実にはありえない、荒唐無稽だ」と言い切ることは、自分にはできません。少し想像力を働かせれば、そういうことだって十分可能なわけです。

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アップルが無料配信のU2アルバム、苦情続出で削除に対応 - CNN.co.jp(9/16)
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“聴覚を介して伝染する疫病を想像してほしい。棒や石は人の骨を折る、そしていまや言葉も人を殺すかもしれない。新しい死は、この伝染病は、どこから襲ってく るかわからない。歌。館内放送。ニュース速報。礼拝の説教。ストリートミュージシャン。電話セールスからも死が伝染するかもしれない。学校教師。インター ネットのファイル。誕生祝いのカード。フォーチュンクッキー。テレビを観た百万の人々が、翌朝死んでいるかもしれない。短いコマーシャルソングがもとで。 そのパニックを想像してほしい。”(『ララバイ』P48)


虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)
(2014/08/08)
伊藤計劃

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 パラニューク『ララバイ』では音楽を介しての殺戮が書かれていました。さて、パラニュークから影響を受けた日本の作家に、故.伊藤計劃氏がおります。'07年に刊行された『虐殺器官』は、 内戦と民族衝突が多発する近未来を舞台に、数々の大規模虐殺の背後で暗躍する謎の人物であるジョン・ポールを、米軍大尉として命を受けた主人公が追うとい うストーリー。〈虐殺の文法〉を世界にばら撒くジョン・ポールとはいったい何者なのか? そして〈虐殺の器官〉とは? 方や「音楽」、方や「言語」という 道具立ての違いはありこそすれど、テーマ性は『ララバイ』と共通しています。また、本書の冒頭部分には、キニャール『音楽への憎しみ』の以下の一説が引用 されているほか、ジョン・ポールのセリフのなかにも、同書の内容に基づいたものが見て取れます。そうです、アイデアの源流のひとつにキニャール氏の思想も あるのです。

“ヴェーダ語の文献に見られる奇妙な計算によれば、神々の言葉に付与された人間の言葉が表現しているのは言葉全体の四分の一でしかないと見積もられている。”(『音楽への憎しみ』P.111)
“「音は視覚とは異なり、魂に直に触れてくる。音楽は心を強姦する。意味なんてのは、その上で取り澄ましている役に立たない貴族のようなものだ。音は意味をバイパスすることができる」”

“「耳にはまぶたがない、と誰かが言っていた。わたしのことばを阻むことは、だれにもできない」”

(『虐殺器官』P.225)

2014年9月14日日曜日

ドキュメンタリー『ホドロフスキーのDUNE』のサントラを手がけた男、クルト・シュテンツェル (Kurt Stenzel)

数週間ほど前になりますが、『ホドロフスキーのDUNE』(監督:フランク・パヴィッチ)を観ました。いやあ、面白かった。フランク・ハーバートの『デューン/砂の惑星』を壮大な構想と豪華スタッフ陣のもと映像化するべくホドロフスキーが制作に取り組んだものの、資金的な問題で結局完成をみなかった幻の作品の経緯を追ったドキュメンタリー。ホドロフスキーがぶちかました大いなるハッタリであり、失敗であり、財産であり、後の数々の作品の礎となったという内容はグッとくる面白さ。思わずパンフレットも買ってしまいました。もうエピソードに事欠かないのなんの。特に、映画出演を巡るホドロフスキーとサルバトール・ダリとの駆け引きのくだりがムチャクチャな理不尽ゲームでニヤニヤものでした。当人としてはヒヤヒヤものだったろうなと思いますが(笑)…とはいえ、人脈が人脈を呼び、徐々に体制が整っていくというくだりには非常にワクワクさせられました。ダリからH.R.ギーガーを紹介されてホドロフスキーはパリに向かい、MAGMAのライヴでギーガーと初対面するという話もあるのですが、よくよく考えるとこの連鎖がなければ、ギーガーがジャケットを手がけたMAGMAの名盤『Attahk』も生まれなかったかもしれないわけで…そういうところにも思いを馳せたり。ちなみにホドロフスキー版DUNEのラストは、主人公のポール・アトレイデが首を掻っ切られて殺されてしまうわけですが、彼の魂は死なず概念となってデューンを一面の緑の惑星に変え、デューンは他の惑星を導くために銀河の果てに消える…みたいなプロット。もちろん原作ではそんな展開はありませんが、映像として見るとすればこれは結構アリだなと思いました。「自由なものを作るには原作から解き放たれねばならない」「だから私は愛をもって原作を犯した」とホドロフスキーは言っていますが、もし叶うならば、彼の愛ある原作レイプを見たかったなという思いも少々。


『ホドロフスキーのDUNE』の劇伴は、全編に渡ってジャーマン・ロック風のシンセサイザー・ミュージックに仕上がっており、宇宙的なイメージを喚起させる雰囲気は非常に耳を惹くものがありました。作曲者の名前はクルト・シュテンツェル(Kurt Stenzel)。彼は、'84年に結成され、ニューヨークを拠点として'05年代まで活動していたハードコア・パンク・バンド Six and Violenceの元ヴォーカリストという異色の経歴の持ち主で、現在はSpacEKrafTというクラウト・ロック系ユニットでも活動しているコンポーザー。そのSpacEKrafTのsoundcloudで、『ホドロフスキーのDUNE』のサウンドトラックが聴けます。全五曲ですが、トータルで約二時間というヴォリューム。まずはどっぷりと濃密なシンセサイザー・ミュージックの海へどうぞ。



 こちらはSix and Violenceの楽曲。どことなくDEVOからの影響もうかがわせる作風です。JETHRO TULLのイアン・アンダーソンを思わせるツバ吐きフルートも聴こえますが、なんとイアン氏本人が実際に彼らのアルバムに何度かゲスト参加していたようです。ところで、フランク・パヴィッチ監督は『ホドロフスキーのDUNE』よりさかのぼること十数年前の1999年に、ニューヨークのハードコア・パンク・シーンを追ったドキュメンタリー映画『N.Y.H.C』を撮っており、その頃に取材の過程でクルト氏と直接出会ったのだそうです。ちなみにパヴィッチ監督は子供の頃にSix And Violenceのテープを聴いており、間接的な出会いはずいぶん前に果たしていたとのこと。海外の電子音楽系情報サイト Synthtopiaがクルト氏へ行ったインタビューでは、パヴィッチ監督との出会いなどについて語られています。


Kurt Stenzel & The Score To Jodorowsky’s Dune ‐ Synthtopia http://www.synthtopia.com/content/2014/04/30/kurt-stenzel-the-score-to-jodorowskys-dune/

Meet Kurt Stenzel, Soundtrack Composer to ‘Jodorowsky’s Dune’ - City Sound Inertia http://citysound.bohemian.com/2014/05/14/meet-kurt-stenzel-soundtrack-composer-to-jodorowskys-dune/

『ホドロフスキーのDUNE』の劇伴は、クルト氏が若い頃から聴き親しんでいた冨田勲の影響が出たのだそうです。一方で彼はクラウト・ロックもいたく愛好しており、CLUSTERやハンス・ヨアヒム・ローデリウスがフェイバリットなんだとか。なるほどといったところです。また、パヴィッチ監督はドキュメンタリーの制作にあたって、当初はTANGERINE DREAMタイプのサントラを考えていたのだとか。最終的にクルト氏が仕上げてきたのは、シンセサイザー主体のメディテーショナルなスコアだったわけですから、結果的に近いところに合致したことになりますね。『ホドロフスキーのDUNE』のサウンドトラックは、LP2枚組でリリースされる予定とのことです。


 最近のクルト氏の動向ですが、彼は数ヶ月ほど前に脳梗塞で倒れ、現在も入院生活を送っています。ニュースを聞いたときはびっくりしてしまいましたが、幸い意識は回復し、最近は少しずつリハビリを受けているとのことで、ひとまず安心しました。リハビリ・プログラムは長期間に渡るということもあり、彼の支援者が現在クラウドファウンディングで寄付を募っています。自分もささやかながら寄付いたしました。クルト氏の一刻も早い回復、そして活動の再開を願っています。

Kurt's Coming Home! - gofundme
  http://www.gofundme.com/kurtscominghome

http://kurtstenzel.com/

2014年9月10日水曜日

浦沢直樹×難波弘之トーク&ライヴ 2014年9月7日(日)世田谷文学館

世田谷文学館で七月中旬から九月末にかけて開催されている「日本SF展」に行ってきました。国内SFの第一世代の人たちの貴重な資料などをズラリと揃えた展示ももちろん目当てだったのですが、七日の日曜日には関連企画イベントとして浦沢直樹氏と難波弘之氏のトーク&ライヴ(事前予約・抽選制)があり、幸いにも抽選が通ったので喜び勇んで会場に向かったのであります。両人のジョイントライヴも、アーサー・C・クラークやレイ・ブラッドベリ作品などに触れつつ、話題がアッチコッチに飛ぶわ飛ぶわのトークも非常に濃い内容で、とても堪能いたしました。ライヴはピアノとアコースティック・ギターのアンプラグド形式で、浦沢氏のオリジナル楽曲を中心としたもの。浦沢氏がレコーダーに撮りためた昔の曲や、『20世紀少年』の"ボブレノン"、また、難波氏がレコーディングに参加された浦沢氏の1stアルバム『半世紀の男』や、チャリティ・オムニバスアルバム『声に出して。』からも選曲されておりました。

難波氏がSF同人「宇宙塵」に入会したのは中学生でしたが、それより先に入会していた「鉄腕アトムクラブ」と違って、こちらは同年代のメンバーがほとんどいなかったということで、難波氏の顔はすぐに小松左京氏や手塚治虫氏らメンバーに憶えられたのだとか。SF仲間が作家の道に進むなかで、難波氏はミュージシャンとして活動を展開していくわけですが、ある日、後にビーイングを創立する長戸大幸氏からソロアルバム制作の話がもちかけられます。これが、'79年にリリースされ、織田哲郎や亜蘭知子といった多数のビーイング関係者も参加した1stアルバム『SENSE OF WONDER』となるのですが、このアルバム制作当時の裏話も披露されていました。SF作品に捧げた楽曲ばかりという趣味に走った内容ゆえ、関係者からは「どういうアルバムなのか?」と訊かれたこともあったとか。

また、ジャケットのイラストを手塚氏が描かれているのですが、この時の話が面白いものでした。手塚氏へのオファーはあっさりと通ったのはいいのですが、当時の氏のスケジュールは相当過密であったため、いつまで経ってもイラストがあがってこなかったため、難波氏自ら高田馬場の手塚氏のところへ直接取りに行くことにしたそうです。手塚先生の原稿を待つ各社の編集者(いわゆる「手塚番」)の詰め所のようなところに通されたものの、タバコをふかし、マージャンで時間をつぶしつつ今か今かと仕上がりを待つ人たちのピリピリした雰囲気に気圧され、スタッフに別室で待てないかと難波氏が訪ねようとした矢先、手塚氏が部屋に入ってきて「ああ、今描くから!」と言われたんだそうな。かくして、難波氏は無事にジャケットを受け取ることができたというわけです。ちなみにその時、現在の浦沢氏の担当編集氏が原稿待ちでその場に居合わせていたそうで、「ミュージシャンっぽいロン毛の兄ちゃん」が入ってくるのを目撃したのだそうな。手塚氏のジャケットイラストは、一見すると氏らしくないタッチに見えたので、レコード会社の人たちはやや困惑していたそうですが、自分は手塚氏の心憎いはからいが感じられて感激した、と難波氏。CD再発盤では小さく潰れていて見えないのだけれども、LP盤ジャケットをよく見ると、手塚氏の虫マークがあることがわかるそうです。浦沢氏が自ら持参されてきた『SENSE OF WONDER』のLP盤をプロジェクターで写しながらトークが進んでおりました。

電飾(イルミネーション)の夜23:59発 (マイコミックス)電飾(イルミネーション)の夜23:59発 (マイコミックス)
(1983/10)
坂口尚

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また、浦沢氏が多大な影響を受け、自らの「心の師匠」として尊敬する坂口尚氏の『電飾の夜23:59発』の単行本も持参されておりました。自分がいかに坂口氏の作品に影響を受けたかということに始まり、巻末に掲載されている坂口氏と難波氏の対談にまつわるエピソードを直接難波氏に尋ねられるという一幕も。「坂口さんには、作品の雰囲気そのままの人柄のよさを感じました」と難波氏。

途中、難波氏の即興演奏に合わせて浦沢氏がイメージドローイングをするという企画もありました。これが凄くて、思わず絶句してしまいました。難波氏のピアノと浦沢氏のイラストが見事にシンクロするという、両者のクリエイティヴィティを味わえるセッション。浦沢氏は三点のイラストを描かれ、それぞれ、渓谷をバックに佇む女性、ベンチに座る一人の男(背後にUFO)と謎の老紳士、窓辺の女性に向かって外から視線を送る花束を携えたロボットという構図でありました。

2014年9月5日金曜日

エンニオ・モリコーネ/アントニオ・モンダ『エンニオ・モリコーネ、自身を語る』(河出書房新社 - 2013)

エンニオ・モリコーネ、自身を語るエンニオ・モリコーネ、自身を語る
(2013/08/27)
エンニオ・モリコーネ、アントニオ・モンダ 他

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著者のアントニオ・モンダ氏が2009年から2010年の間に断続的に行ったエンニオ・モリコーネへのインタビューをまとめた一冊。若かりし頃の思い出や監督との交友などの裏話、自身の音楽的な試みや、趣味・思想などが語られており、彼のバックグラウンドを知る格好の内容になっています。実は前に一度読んでいるのですが、つい最近 モリコーネが演奏者として在籍していたGruppo di Improvvisazione di Nuova Consonanzaのアルバムを聴いたこともあって、改めて読み返しました。Nuova Consonanza絡みの記述は本書でもいくつか出てくるのです。モリコーネが記憶に残っている作品としてエリオ・ペトリ監督の『怪奇な恋の物語』(1969)を挙げているのですが、同作のスコアの半分はNuova Consonanzaが演奏していたということも、本人の口から語られております。また、モリコーネがトランペット吹きであるのは、ジャズ・トランペッターであった父親の影響と教育の賜物によるものでもあったのだなと(ローマ音楽院のトランペット科も卒業しています)。ユニセフから子どものための音楽の作曲のオファーをモリコーネが受けたときに、ニーノ・ロータ、エジスト・マッキ、フランコ・エヴァンジェリスティ、ルイス・バカロフの四名を推薦したという話も興味深いものがありました。エジストとフランコは優れたコンポーザーであったと同時に、Nuova Consonanzaのバンドメイトでもありました。ディノ・デ・ラウレンティスに『デューン/砂の惑星』の話を長々と聞かされたという話がちょろっと出てくるのですが、これはもしかしたらモリコーネがスコアを手がけていたという可能性もあったのかなとふと思いましたが、「仕事をもちかけておきながら、そのまま音沙汰がなくなるということも何度あった」(P197より)と言っているところをみると、監督的にはツバをつけていただけなのかも知れませんが。

「特に気に入った演奏はありますか?」とインタビュアーが質問した際、モリコーネがジョン・ゾーンを賞賛するくだりがあるのですが、驚くと同時になるほどなという納得がありました。「たとえば、ジョン・ゾーン。とても優れたミュージシャンだと思います。彼に言ったことがあります、『あなたが演奏すると、自分の曲だとわからない』と。彼の手にかかると、わたしの音楽はひとつのきっかけのようなものになる。―」(P169より)ちなみに、ジョン・ゾーンは2006年に出たNuova Consonanzaの未発表音源BOXセットのライナーノーツを書いております。また、彼の主宰するTZADIKレーベルより、モリコーネの劇伴作品をゾーンが大胆にカヴァーした『Big Gundown』というアルバムが出ています。

Big Gundown Plus-15th AnniversBig Gundown Plus-15th Annivers
(2000/08/22)
John Zorn

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カヴァー/リミックスものの企画盤ですと、2003年に第一弾、2004年に第二弾が出た『ennio morricone remixes』というものもあります。あちこちのコンポーザー/リミキサーが多数参加したオムニバスで、細野晴臣氏も「Evil Fingers(新・殺しのテクニック/次はお前だ!)」のリミックスを提供しています。ちなみに自分はこの"黄金のエクスタシー"のリミックスがお気に入り。

Remixes 1Remixes 1
(2003/10/21)
Ennio Morricone

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モリコーネ本人のコンピレーションアルバムだと、『Psychomorricone』というシロモノがあります。60年代のサスペンスもの作品のスコアを中心に選曲しているようです。

Psychomorricone.jpg
https://itunes.apple.com/jp/album/psychomorricone/id193258372

2014年9月4日木曜日

吉河順央『AND DIAMOND』(2014)

AND DIAMOND
AND DIAMOND
posted with amazlet at 15.06.25
吉河順央 (2015-06-24)
売り上げランキング: 2


https://itunes.apple.com/jp/album/and-diamond/id1011291536
http://sooopiyo.pw/CD01.html

同人音楽アルバムへのフィーチャリング参加や、アイドルグループ「STAR☆ANIS」のメンバー〈すなお〉として、アニメ「アイカツ!」の紫吹蘭・風沢そらの初代ヴォーカルを担当されていた吉河順央さんの1stソロアルバム。トラックメイカー陣には、吉河さんとはBEMANIシリーズの楽曲やユニット「LAZY GUNG」で既にコラボレーションしているkors k氏や柳英一郎氏のほか、Prizmmy☆やアップアップガールズ(仮)などのアイドルグループの作編曲を手がけるmichitomo氏、PandaBoY氏、インダストリアル/ニューウェイヴ・ユニット オーラルヴァンパイアfu_mou(藤野芳邦氏)折倉俊則氏といった気鋭の面々が名を連ねているほか、アルバムの企画協力者として水島精二監督も参加(「アイカツ!」のスーパーバイザーでもありますね)。吉河さんの歌唱も、贅沢なメンツに一切ひけをとらない見事なものがあります。アルバムは全8曲。参加メンバーのカラーはキッチリと反映させつつ、そのいずれもが多幸感溢れるアッパーチューン、ハッピーなガールズ・ポップという攻めに攻めた内容であり、オープニングから派手なシンフォニック・ポップス"ReReLaRISING"(作曲:折倉俊則)が飛び込んできます。吉河さんと同じくSTAR☆ANISの卒業メンバーである山崎もえさんがゲスト参加し、ツイン・ヴォーカルを聴かせるハードエッジなシンフォニック・チューン"FluoriteBouquet"(作曲:柳英一朗)や、FM音源のイントロからヘヴィなエレクトロビートでギラギラに展開する"ヘルコップ"(作曲:オーラルヴァンパイア)も強烈ですが、本作随一の“キワモノ”といえる楽曲が、只野菜摘さんの作詞、コジマミノリさんの作曲、そして水島監督をスーパーヴァイズドという「はなまる幼稚園」のチームによる"あなたに似た人"。プログレ調の壮大な"キグルミ惑星"を手がけた作詞/作曲コンビが本作で提供したのはズバリ、ヘヴィ・プログレ・チューン。序盤のヘヴィ・ロックな展開こそ特撮(大槻ケンヂ)テイストをリスペクトしたものですが、全体的にみればポップ、ハード、メルヘン調の展開が全部叩き込まれた三、四部構成ぐらいのオペラじみた無駄に大仰な一曲となっており、まずぶったまげます。


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